ほっこくブログ ~潟のエトランゼ~

来訪者から見た北國のすがた

やよい軒の輝き

こちらに移り住んではや一年が経とうかという、今さら気が付いた。やよい軒が最強だという事実に、ようやく気付くことができた。

定食のご飯が、おかわり無料である。しかもその白米が控えめに言って旨い。わからない。すごくお腹が空いてるからかも知れないけど妙に旨い。郷里を離れてからというもの、白米単品を美味しいと思うことがめっきり無くなっていたが、こんな近くにあったというのか。私の求める米が。

それにしてもサバの味噌煮定食が630円は安い。味付けも良い。この煮汁に、ご飯を浸して食べるのは果たして行儀が悪いのだろうか。店員さんやほかのお客さんに見られないよう、手元を少し隠しながら食べる。

ところで店員さんが何気なく私の卓に置いた壺の中身は切り干し大根のお新香であり、いくら食べても料金は一銭もとられないようだ。しかもこれが、この手のお新香によくある投げっぱなしな質ではない。美味しい。絶妙に、ご飯が進んでしまう。

すごく幸せだ。思わず天を仰いだ。

私は不覚にも、いままでやよい軒の魅力に気づかなかった。やよい軒の良さを知らなかった今日までの自分と、やよい軒を知ったこれからの自分、この二つの自分は、もはや全くの別人であるかのようにすら思えた。

四杯目のおかわりに行くとなんとご飯が炊きたてだった。湯気の向こうにあり得ないくらい艶々しているお米。実を言うとここへくる直前、空腹を紛らわす為に食と健康に関わる記事をいくつかネットで見ていて、その中に、白米は健康に悪いという話を見つけ、米好きな私はいささか動揺した。しかしそのような主張はいま、湯煙越しにご飯が放つ神々しいほどにまばゆい輝きのなかにかき消されていくのであった。こんなに美味しいのなら多少健康に良くなかろうが構いはせぬ。

正直もうお腹一杯ではある。しかし良飯発見の嬉しさのあまり自然とテーブル端のメニューに手が伸びてしまうというもの。開いたメニューを眺めながら次来たときは野菜炒め定食にしよう、あーそっか親子丼はここで食べられたのか、などと心中呟きつつ最後のページをめくってはたと気づいた。デザートがない。

この店のメニューにはデザートはないのだ。潔い。どうした、しょっぱいものを食べに来たんじゃないのかお前はとでも言わんばかりの小気味良いラインナップだ。

もっとも、これほどの充足感の上にさらに甘いものまで平らげようなどというのは生理的必要性からして蛇足以外の何物でもなく、そんな貪欲でハシタナイ真似は到底する気になれない私だ。やよい軒は、そこら辺をよくわかっている。冷静に顧客が求めるものを吟味したうえで、中途半端な品は一切提示しない。そんな明哲かつ鋭利なこの会社の企画部門のポリシーを窺い知った。そうだ、それでよい。メニューの冊子を閉じながら心のなかでそう唸った。

そんなストイックなイメージのあるやよい軒であるが、接客に関しては意外な一面を持っていることが明らかになっている。小松店の店員さんとのエピソードをひとつ、最後にご紹介しておこう。

やよい軒ではご存知の通り食券方式の支払いとなる。話が後先になるが私は食事の前に、券売機の前でメニューを見ながら2、3分悩み抜いた末、鯖の味噌煮定食にしようと決心してプチっとボタンを押したつもりが、間違えて鯖の塩焼き定食の方を押してしまったようなのだ。痛恨のミスであるが、そのときの自分は気づいていなかった。

食券を渡したときに店員のお姉さんが注文を復唱してくれたから間違いに気付くことができた。このときは狼狽えた。あーちがうちがう。塩焼きが食べたいんじゃないんだよと思い、恥じらいながらも実は味噌煮が食べたい旨を正直に伝えて事なきを得た。

お姉さんは嫌な顔をせず、それどころか自然な笑顔を私に見せて味噌煮への変更を了承してくれた。私は、そのことが純粋に嬉しかった。それが接客業に従事する人間として当然の態度と評してしまえばそれまでの話かもしれないが、一方でそういう消費者優位な風潮に全身全霊を注いで便乗するかのような驕り高ぶった考え方が、巡り巡って我々現代人の生き方を窮屈にしていることを思うと、やはりここはお姉さんのスマイルに心底から感謝してしかるべきであり、そうして店を去る時の私の胸中には、満足感と喜びしかないのである。

良かった。味噌煮が食べられて本当に良かった。

北陸の温泉

石川県内の至るところに温泉はある。今ぼんやり自分が立っている足下をスコップでぐりぐりやっても堀当てられそうなくらい、そこらじゅうで湧きまくっている。この土地の下には無尽蔵の湯だまりが埋まっているのだ。私の郷里では温泉など滅多に見かけなかったものだから、こちらへ来て、日常的に温泉に浸かっている人々が羨ましい。

せっかくこちらへ越してきたわけなので、この機会に趣味として湯めぐりをはじめてみることとする。週末は温泉に入りに行くことに決めた。

イオンモール新小松のお惣菜

 

イオン新小松の食品売り場は夜9時過ぎからがフィーバータイムである。これは小松に住む人間なら誰もが知っている。

とってもお安い。その上取り扱う品目も幅広い。割引が始まる時間帯でもまだまだ売れ残っている。揚げ物が安い。弁当が安い。そしてパンが安い。

ここ二ヶ月ほぼ毎晩通っているが、半額になった塩パンが山積みされているのを見るといつも気持ちが高ぶる。ただでさえ定価110円とお手頃な塩パンがたった55円で食べられる現実を前にニヤニヤを隠せない。

自分以外にも割引商品目当てで来ているお客さんは多い。彼らは割引率の高い売り場の周囲をニヤニヤしながら衛星のようにいつまでも廻っている。私にはわかる。きっとみんな、お安くご飯を食べられることに無上の悦びを見いだしてしまったのだろう。

私は楽しい。ここへやってくるために使う自動車のガソリン代、移動や買い物にかかる時間、そして安さを言い訳にした本末転倒な衝動買いのリスク。それら全てをひっくるめたうえでなお、毎晩ここでご飯を買うのが果たして本当にお買い得といえるだろうか。自分の場合、実は怪しい。しかしながら楽しい。

気づけばこれはもはや趣味であった。

割引きし始めた食料品を見て歩く十数分が、1日のうちで一番幸せだと言っても過言ではない。娯楽として「お買得」を楽しんでいる自分に気づいたとき、真に経済的に得をしているかどうかはもはや大きな問題ではなくなっていた。極端な話、4本で192円のキュウリを買うためだけに、往復で140円のガソリン代を支払うという一見矛盾した行為も、趣味である以上不満はないのだ。

もちろん卑しい趣味であることはわかっているつもりだ。私が安く買う品を普段から定価で買うお客さんがこの世の何処かにいるわけで、自分はそのような人達のおこぼれにあずかっているわけである。頑なに割引商品しか買わない自分のような客など、お店の経営者にとっては来ても来なくても同じである。

しかしながら安物買いは楽しい。安く美味しいご飯を食べられることが楽しい。前述したように、割引商品を見ている時間は私にとってかけがえのない幸せだ。

半額になった塩パンの山が、仕事に疲れてヘトヘトになった私を何度でも甦らせる。